こんにちは。駒澤大学駅前の買取専門店『ゴールドパーチェス』です。
本日は鑑定番組などでもよく耳にする『有田焼』についてご紹介したいと思います。
骨董品の中でも刀や花瓶などに並んで高価な物をテレビなどでも見かけることがあると思います。
その中でも今回は有田焼(古伊万里焼)を紹介させていただきます。

現代でも有名な作家さんとしては【十四代 酒井田柿右衛門】や【十四代 今泉今右衛門】、【井上萬二】などの作品は有名でとても価値があります。
有田焼と伊万里焼の違いは?

同じ佐賀県で作られる有田焼と伊万里焼はどう違うのか?
まず焼き物には大きく分けて「陶器」と「磁器」があります。
『有田焼』とは佐賀県有田町周辺で生産される磁器です。
明治時代以降からは有田で作られた磁器を生産地の名前からとり有田焼と呼ばれるようになりました。

特徴としては陶石と呼ばれる石から磁器土を作り、成形した後「釉薬」をかけて1,300度の高温で17時間以上時間をかけて焼き上げて作られる磁器です。
磁器は軽く硬質で耐久性があり、ヨーロッパの貴族から「白い金」と称されるほど綺麗な白色が特徴です。
なめらかな地肌は絵柄を施すのに向いていて、藍色で染め付けをしたり、色鮮やかな色付けをされる器が多く、品格のある佇まいを感じられます。
有田焼は大きく分けると3種類に分けられます。
その一つが「古伊万里様式」と呼ばれる江戸時代に作られていたものです。
染め付けした上に金襴手(きんらんで)という赤や金色の豪華な装飾技法が使われた、華やかな印象の磁器です。
二つめが「柿右衛門様式」です。

先ほどご紹介させて頂いた酒井田柿右衛門が考案した様式で、暖かみのある乳白色の地肌の余白を活かした絵画的な絵付けが特徴です。
主に赤・緑・青が用いられ色使いと繊細な線で、日本独特の鳥や花などの絵を左右非対称に表現されているものが多く見られます。
和の趣き、良さを讃えた柿右衛門様式の焼き物は海外での人気が高く、貴族などに向けて多く輸出されていました。
三つめは「鍋島様式」です。

鍋島様式は庶民向けではなく、鍋島藩直営の御用窯で、藩の厳しい管理下のもと諸大名への献上品として作られていました。
青みがかった白い地肌に、規則正しく描かれた裏紋様や櫛の歯のように等間隔で精密な文様が高台に施されているのが特徴です。
品格を重んじ、採算度外視で作られた鍋島様式の焼き物には芸術いわれる作品が多く存在します。
有田焼の歴史
有田で磁器が最初に焼かれたのは1,616年頃。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に連れてこられた朝鮮の陶工が、流紋岩(りゅうもんがん)という磁器を作るときに原料として使われる、上質な陶石を有田の泉山で発見し、日本国内では作ることが出来ないと言われていた磁器の焼成が始まりました。
有田周辺の陶器窯では陶器・磁器の生産が活発になり、国内市場に一気に広がっていきました。
当時伊万里港から船で出荷されていたため、江戸や京阪では「伊万里焼」と呼ばれることも多かったとされています。(今利・今里とも呼ばれた)
この時代の陶器といえば中国の「景徳鎮磁器」。
世界的に品質を認められており、日本でも盛んに輸入していました。
ところが1,644年頃から中国の王朝交代に伴い内乱が起き輸出どころではなくなってしまいました。
そこで有田の磁器の需要が増加し、生産量が増大、1,640年代のうちに国内の磁器市場を独占しました。

中国の輸出激減の影響は日本だけでなく、それまで中国から磁器を輸入していた多くの国に影響を及ぼしていました。
1647年には中国船によって有田磁器が海外への輸出を始めたとオランダの記録に残っています。
東南アジア向けの輸出でタイ・ベトナム・インドネシアなどの遺跡でも日本の磁器が見つかった記録も残っています。
当時はまだ輸出用に作られていたわけではなかったので、国内向けに作られた物から選ばれた物が運ばれていたようです。
1,640年から鎖国時代を迎えた日本。
幕府から貿易を許されていたのは歴史の授業でもご存じの中国とオランダのみでした。
中国船に加え、オランダ船が有田磁器を運び始めたのは1,650年頃。
ベトナムのトンキンにむけて有田磁器を輸出した記録が残っています。
オランダには中国磁器の備蓄があったとされ、製品の品質を重視していたためすぐには有田磁器は扱われませんでした。
オランダへの輸出量から、有田焼の技術レベルを確認しながら進めていたと考えられます。
需要が高まる中1,644年から1,650年にかけて有田では中国の技術を導入し飛躍的な技術革新を遂げていきました。

特に技術を上げたのは「色絵」です。
(特に和絵具でしか描けない緑色の下に描いた葉脈が見える描き方など)
16世紀以降、中国磁器が世界の貴族・上流階級に重宝されたのは色絵技術による付加価値が大きいと言われています。
「酒井田柿右衛門家文書」によると、この色絵技術を初代柿右衛門が修得し、試行錯誤の結果1647年にできた焼き物を長崎に持参して売り始めたとされています。
こうした技術向上にのり1,650年代末には有田の技術は景徳鎮磁器と遜色が無いほどに注目を集めました。
有田での磁器生産がスタートして30~40年のスピードでブランドを作って行きました。
1,659年には有田磁器の成長を見届けたオランダがヨーロッパに有田磁器を輸出させるようになり、オランダの東インド会社は毎年のように大量の注文を行うようになった。
景徳鎮の見本や西洋独自の生活用品の依頼が後を経たずそれに応えようと有田の技術はさらに磨かれていきました。

ヨーロッパの食器、生活用品、調度品に至るまで様々な有田磁器が輸出され人気を博した。
今もなお宮殿や邸宅に多くの有田磁器が残されていることからも様子が伺えます。

1,659年に始まったヨーロッパ輸出は1,684年に中国磁器の輸出再開による、輸出競争やヨーロッパ各地での戦争や内乱を経て、公式輸出が終わる1,757年まで約100年間続きました。
中国の輸出再開の頃から国内向けに商品を改良し始めていた有田はその後も富裕層向けの商品から町民層に向けた商品も手がける様になり、江戸の食文化には欠かせない器として国内市場に出回っていました。
どうでしょうか?
今の時代では耳慣れた有田焼という言葉や焼き物ですが初めの物語を知る機会はなかなか無い方もいらっしゃると思います。
今回書ききれていない古伊万里との歴史なども今後紹介出来ればと思います。
ご自宅に眠っているお皿や陶器、頂き物で価値が分からない物や、昔からお家に置いてある物など、専門の知識を持った鑑定士が所属しているゴールドパーチェスへぜひ一度ご相談ください。
いつでも相談料、査定料は無料です。
みなさまからのお問い合わせをお待ちしております。